コジンテキカクメイ

ココロにカクメイをおこそうとおもって

◯◯◯

SEX



って言ったらなんて思う。なんて考える。



大切な人とすることって言ってみたり
愛の表現と言ってみたり
恋人、夫婦でしかしてはいけないもの
みだらな恥ずかしいこと



ただのそれは概念なんだよね



ただのそれは解釈なんだよね



それがどういうものかということを頭で理解して頭で解釈し頭でそうゆうものだと思っているよね



小さな子どもの頃それについて親に聞いて怒られたり、テレビがそれを触れちゃいけないもののように扱っていたり、それを下世話に話していたり…



そうやってなんとなく世の中の共通意識として性ってのが印象つかられてしまってるだけなんだよ



でもそれは本質じゃない



まぐ愛はただ肌を合わせるということなんだよ。



頭で考える前に



体は感じている



ただただオートマチックに体は感じる



その感じているソレが SEX でまぐ愛ってやつなんだよ



頭は感じることをしないんだよ



だから頭では まぐ愛はできないんだよ



だからまぐ愛は感じることが全てなんだよ



体が何を感じているか感じてみて



あったかいとか



心地がいいとか



安心するとか



それを感じきるっていうのは自分と向き合うってことはなんだよね



考えや概念や思考が本当の自分から目をそらさそうとする



ただ体が感じることに徹するんだ



考える前に体が感じていることに気がついてほしい



そしてその感じていることをただ受け入れてほしい



それでいいんだ


そんなもんさ



まぐ愛はエロでもやらしいことでもない



ただ感じること



たたそう感じることなんだ



感じる自分に身をまかせてみて(・Д・)ノ



いつも言ってることと一緒



頭は相対の世界を感じる



体は絶対の世界を感じる



まぐ愛は



相対の世界から絶対の世界にイッキに航海する船みたいなもんだ



航海できないときにはそれは思考っていう形のない岩礁や浅瀬や海流ってのに阻まれる



それでいい

それを自分で見つめて眺めるだけでいい



きっとそれは溶けてなくなっていくから



それは本質じゃないと気がつけるから



それは本質に触れようとする一歩になる(・Д・)ノ

世界は鏡、世界は私

鏡の前に立つ


鏡に私がうつる


私は私を見ているのか


それとも


私は鏡を見ているのか



小さな子どもや動物は


鏡の中にうつる自分を見ていない


他人だと思って声をかけてみたり触れてみたりする



いづれそれが自分だと気がつき鏡の中に自分を見る


誰しもが初めは
鏡をただ鏡として中に他人がいるように見たはず


だけといつしか鏡ではなく自分を見だす


世界は鏡だ


自分が鏡にうつった自分を自分として見るように


自分が世界で起こった出来事や物事を「これはこう」「それはそう」として見る


言い換えると


自分の解釈や価値観や分別といった物の見方で「全て」を見る


鏡にうつった自分を見るとはそういうことだ


仏教ではこの世界を「色」という


逆に鏡そのものを見るということは


自分の解釈や価値観や分別といった物の見方を取っ払ってありのままを見るということだ


仏教ではこの世界のことを「空」という


空即是色
色即是空


解釈も分別も持たずに見る世界を「空」といい
解釈と分別に通して見る世界を「色」という

解釈と分別を通して見る世界を「色」といい
解釈も分別も持たずに見る世界を「空」という


わかりやすく訳すと
まぁこんな感じの事を言っている


つまり


僕たちは「自分」で世界をこのように見ている


ということ


それが


幸せであっても、不幸であっても、嬉しさであっても、怒りであっても、楽さであっても、苦しさであっても


それはつまり


自分でそう世界を見ているということ


鏡にうつる自分を他人だと思うことも


鏡にうつる自分を自分だと思うことも


それは「自分で」そう見ているということ


そしてそれは


それ以前に自分でも他人でもなくただの鏡であるということ


って一歩引いて日常を見ることができると


気楽に毎日を過ごすきっかけになったりするかもね♪

相対の世界、絶対の世界

テレビをつける


アフリカの恵まれない子どもたちの映像が映る


心が痛い


明日の食べ物さえ確かではない世界


いかに自分が恵まれているのか
いかに自分が幸せな人間なのか


忘れていた当たり前に感謝する


テレビをつける


セレブと言われる親を持つタレントの映像が映る



心が貧しくなる


使っても使ってもなくならない金がある世界


ただ生まれた家が違っただけで
絶対的な不平等でしかない現実


やっぱり私は恵まれていない



さて私は


「恵まれているのか」


「恵まれていないのか」


私は実は


恵まれているし、恵まれていない


私は私より


背の低い人を見て「私は背が高い」と信じ


背の高い人を見て「私は背が低い」と信じる


私は比べることによって世界を判断する


私は「相対の世界」を生きている



器という判断基準で私は私が


不足しているのか、満たされているのか、余っているのかを判断する


器は


夢だったり、思い出だったり、友達だったり、世界の現状だったりする


でも本当は



不足してもなく、満たされてもなく、余ってもいない



「こうでしかない」


という比較も判断もないあるがままの絶対の世界に全ての人が存在している


この世界に相対性を持ち込むことで
人は幸せにも不幸にもなることができる


こんな疑問を
誰もが持ったことがあると思う


私が貧しく哀れだと思う生活をしている異国の人たちが


何故、私よりも幸せそうに笑顔を絶やさずに生活しているのかと…


それは彼らは
「絶対の世界」に生きているから


比較して自分を不幸にすることも
比較して他人を不幸にすることもない



そして


全ての人が今この瞬間に


絶対の世界に帰ってくることができる


そもそも
そこから離れることなんて一時もできないのだから

ただただ味わう

脳は色んな味を知っている


甘いとか、苦いとか、しょっぱいとか、辛いとか


ただただ味わうことができる


味蕾っていうセンサーでソレを察知し
味覚という感覚によって味として感じる


ただ感じる


甘いものはただ甘い…


苦いものはただ苦い…


ただそれだけ
そう感じたということで終わり


それに条件も情報もいらない
ただ感じることが全てでしか無い



心は色んな感情を持っている


嬉しかったり、悲しかったり、怒ったり、楽しかったり


ただただ
心は感情を味わうことができる


楽しいときは楽しい…


悲しいときは悲しい…


ただただ
そう感じたというだけで終わり


それに条件も情報もいらない
ただ感じることが全てでしか無い



味を味わうように


感情も味わえばいい


それそのものを楽しめばいい


味わうことに批評なんていらないように


感じることにも批評なんていらない


気がついたら


コレは美味しい食べ物だと
思うことで美味しく食べていたり


コレは悲しいと出来事だと
思うことで悲しく感じていたり


アウトプットありきの
インプットをしがちなんじゃないかな

〜すべき → してもよい

他人の行動にムカついたことってない?
自分の行動にムカついたりしたこととか?


誰でもあると思う


ムカつくことって
気分が良い?それとも気分が悪い?


たぶん悪いよね
だからみんな気分が悪くなりたくないから


相手に注意してその行動を取らせないようにしたり
相手を酷評して自分の意見が正しいと主張するよね


それはそれでいいんだけど


はたしてそれでいつも気分良くいられるかな?


きっと無理だと思う


人はそれぞれ自分の「正しい」が違うから


だから


思い切ってこうしてみたらどうだろう?


例えば


「ポイ捨てはすべきではない」という正しさを持っている人がいたときに


ポイ捨てをした人を見かけたときに腹が立ったり悲しくなったりムカついたりすると思う


そこであえて


「ポイ捨てをしてもよい」って許可してみるんだ



これは積極的にポイ捨てを肯定しているんじゃなくてあくまでも気持ちの面で許可してあげるんだ


ついでに10回くらい
「ポイ捨てしてもよい」って唱えてみて


そうすると「ポイ捨て」をした人を見たときに腹が立たないしムカつくことがなくなる


人はしてもいいことをしている人に対して腹を立てる道理はないからね


これは


あなたの中にある


〜すべき
〜すべきではない
〜しなければならない
〜してはいけない


っていう自分ルールに許可を与えてあげることになるんだ


そうすると
全てのことが


〜してもよい
〜しなくてもよい


になる。そうするとあなたは他人も自分も裁くっていうことから解放される


きっとこれは
簡単なことではないかもしれないけど


あなたが腹を立てるのは
「あなたが腹を立てている」のであって


出来事が原因であなたの腹が立たされているわけではないんだ


つまり


他人や自分に腹を立てるのはあなたが作った「正しさ」っていうルールによってそうさせられているんだ


だから
気分良くいたければ


変えるべきは「自分」でも「他人」でもない
変えるべきはその自分ルールに「許可」を与えることなんだ


自分の中にある「〜べき」を探してみて欲しい


その「〜べき」を許可した自分と許可しない自分どっちをえらんでもいいんだけど


選ぶことによって気分良くいられるんならそれもいいんじゃない(・ω・)ノ

分かち合うこと

こないだ久しぶりに

高校時代の友達に電話した

 

俺「もしもーし、久しぶりー!」

友「久しぶりー、どしたー?」

俺「いやー、BOSEのスピーカーが欲しくてさ、2万ちょっとするんだけど、2万ちょっとくれない?」

友「はっ?…どゆこと?」

俺「だから、BOSEのスピーカーが欲しくてさ、2万ちょっとするんだけど、2万ちょっとくれないって聞いてみてるんだけど?」

友「はっはっはっはっ!…んー、ええでー。」

俺「はっはっはっ!マジで!?」

友「口座、教えて〜振込わ〜。」

 

ってなことがあった

 

冗談半分というか冗談全部で言ってみたんだけどまさか応えてくれた友達に感謝と笑い

 

自分もそういう人であろうと思った 

 

というか実は自分も見知らぬ人によくお金をあげてたことがある

 

誰もが他人に頼れて誰もが他人に応えられる社会ってどんなだろう

 

もちろん応えない人もいて然るべきだけど、応えてくれる人がいるっていう安心感

 

もし

 

自分にお金がなくて、仕事にも就けなくて、身内も知り合いもいなくて、生きることが困難であるとき

 

赤の他人に助けなんて求められないし助けてもらえるわけがないと信じていたとき

 

選択肢は

 

のたれ死ぬか、盗むか

 

赤の他人でも求めれば助けてくれる人がいると信じることができれば

 

のたれ死ぬことも盗むこともない

 

去年、フィリピンのマニラを歩いていたとき小さな子どもが群がってきて楽しそうに話しかけてきながら

 

一生懸命に財布やスマホを盗もうとしてきた

 

もちろん盗られないようにしたけど全くムカつかなかった

 

彼らは生きるためにしているんだと思ったらそれを否定することは、死ねって言うのと同じだと感じたから

 

彼らが死ぬのと、彼らからしたら恐ろしく豊かな旅行客の財産が少し減るのとどちらがいいかと考えたら

 

彼らが盗んででも生きるほうがいいんじゃないかと感じたから

 

けど盗まなくても生きれる社会であればなおいいのは言うまでもない

 

生きる為の犯罪は

 

分かち合うこととそれを求められる社会風土でなくせると思う

 

お金でも気持ちでもなんでも他人に求めてもいいんだよ〜

 

断る人もいるだろうけど必ず助けてくれる人もいるから〜

 

無条件の見返りも何もない施し

 

それを愛っていうんじゃないかな

 

理想が実現しないあたり前の話

理想の上司

理想の部下

理想の彼氏

理想の彼女

理想の家庭

理想の会社

理想の社会

理想の子供

理想の両親

理想の友達

f:id:ka21kun:20160610182516j:image

理想はいつも今じゃないんだよね

そして人生はいつも今でしかないんだよね

理想を実現できないことで悩む必要はないんだよね

だって理想は実現できないから理想なんだから