仏陀とキリストと現代と
まぁ大体みんな同じこと言ってんのさっ!
って話でキリストと釈迦の指したのはこれちゃうかなーって話を書いてみた。
かなりアバウトなんでその辺はご愛嬌
キリスト教には救いの計画っつーのがあって、堕落した人間を救う神さまの計画があるんやってさ。
そもそもなんで人間は堕落したかっていうと、昔々人間そのときのアダムとエバはエデンの園っていう所に神さまと一緒に住んでてんな。
んで、そこでアダムとエバは神様に、
「この木の実は食べたらあかんでマジでっ!」
って言われててそれが禁断の果実みたいなやつで、食べたらあかんねんけどビーへーが、いやヘビがアダムとエバをそそのかしてその果実を食べさせてんわ。
ほったらアダムとエバはそれまでスッポンポンでいたのに、果実を食べたとたんお互いのやらしい部分を隠しだしてんな、
それは知識の実っつって知恵がついたから超はずいやん裸やしって感じになってん。
したらそれみた神様が、
「お前ら絶対くーてもうたやん!」
ってなってエデンの園から追放されてんな。
んでその知識の実でそれ食うたから二人は知識がついてもうてんな。
それが堕落の始まりやねん。
とりあえずキリスト教はいったん置いといて、
次は仏教の話してみよかー。
あ、そうそうキリスト教は救済っていうけど仏教は衆生済度っていうんかな、なんせみんなハッピーでいよーっぜって話ね。
で、仏教やねんけどいっちゃんはじめは釈迦国のシッダールタって王子様が超セレブで何不自由もない生活しててんけど、王宮の外で病気なったり年老いたり死んでたりめっちゃ苦しんでる人らをみて、
人が生きるって苦しいことばっかやんって気が付いたことから王子さまでありながら出家しはってん。
んで、なんやかんや悟りを開きはってんけど、
そもそも悟りってのはなんかというと煩悩から解き放たれることやねんな。
んで、煩悩ってのはなんかというと、
「ああなりたい」とか「こうなりたい」とかいわゆる欲望のことをいうねんな。
その欲望が108個あってそれの手放し方を解いたのが仏教やねんな。
「ああなりたい」けどそうではない、
「こうなりたい」けどそうではない、
という欲に対して現実はいつもそうではないというギャップが苦しみの原因で、「欲」を手放すことで人は悟り救われるということをときはってん。
で、ここらでキリスト教と仏教の考え方を擦り合わしたいねんけど信仰する対象はそれぞれ違うねんけど、それぞれ同じことを示してんねんな。
例えば、
キリスト教→知恵
仏 教→欲
現 代 →左脳、思考 、分離
キリスト教→堕落前
仏 教→悟り
現 代→右脳、直感、ワンネス
キリスト教は信仰と聖句によって神様のもとへ戻りまた永遠の幸せの中に生きれるという話。
仏教は世界は色だと見抜き悟りを開くことで涅槃にたどり着けるという話。
現代はノンデュアリティーとかワンネスとかいうけど、まあ同じ話。
世界を相対的に見ることから「苦しみ」が生まれ、
世界を絶対的に見ることから「至福」に至る。
ただそれだけの話。